徒然日記その55. 何のための勉強なのか(7/31)
「先生、ルートって誰が発見したの?こんなのなかったら面倒くさくなかったのに。」子供たちの口からよく出るセリフである。数学で習うルートはまるで子供たちの敵のようである。敵は"ルート"でなくて"英語"や"電流計算"や"文法"のこともある。要するに、"もし、そういうものがなかったら勉強しなくて済んだのに"ということが言いたいのである。自分にも覚えがあるので、「そうだねえ」と笑って答えることにしているが。塾で「あのね、勉強ってものはね、・・・」と語ったところで、ピンとこない中学生の方が多いのである。
ところが、である。こういう発想をする大人も多いのだ。これは問題だ。こういう大人は子供の成績さえ上がれば満足してしまう。もちろん上がるに越したことはないのだが、プロセスなどどうでもよい・結果オーライな大人達は問題である。だから、塾や予備校はxx高校50人合格!とかXXX大学100人合格!なんて宣伝合戦を繰り広げるのである。合格数とはマクロに捉えた一面に過ぎず、子供ひとりひとりに全てあてはまるものではないのにだ。しかし現実的には合格数を稼ぐための指導をする塾や予備校は多い。そうしなきゃ生徒が集まらないのだから当然ではある。だから、定期試験や入試の出題予想したり、付け焼き刃の指導をして、その場で得点できれば先のことなどお構いなしである。先日、ある塾の講師と話す機会があったのであるが、彼は自分の開発(?)した中学理科のある単元の教え方を自慢げに話してくれた。「しかしそんな教え方したら高校に入ってから困るんじゃないの?」と私。「そんなこと知ったこっちゃないです。」彼の勤める塾は中学生までしか対象としないのでそんなこと関知しないらしい。これがこの業界の体質の偽らざる一面である(あくまで"一面"であることを願って止まないが)。そういう需要が存在するからなのだろうが、情けない限りである。
そもそも勉強とは何なのか。フランスの哲学者アランはこう言っている。「子供の勉強とは性格を鍛えるためのものである。それが綴り方だろうと訳だろうと計算であろうと、問題は、気まぐれな気持ちにうち勝つことを身につけることである。」理想論と言えばそれまでかも知れないが、これこそ教育の目的であり、理想であると思うのだ。現実は厳しいが、理想は忘れたくないものである。「ゆとり」の教育とは、こういう理想を実現するためにあるのではないか。これは塾や予備校では決して出来ることではなく、「学校でしかできないこと」だと思うのだが。
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