徒然日記その95. 内申点のマイナス効果? (4/16) 

 学習塾で教える私が、「学習塾のマイナス効果」について書くのもおかしな話であるが、前回の続きを書いてみよう。前回は「成績を上げてくれるけれど学力はつけてくれない学習塾」の話をしたのだが、今回はその根幹に関わる受験制度について。愛知県を例に挙げると、高校入試にまず必要なのは「内申点」である。正式には「調査書」と言うもので、この調査書に書き込まれる通知表の素点合計を一般に「内申点」と呼んでいる(正式な呼称ではないので念のため)。

 さて、入試に臨む以上、合格したいし、させたいのは当然である。では合格するためには何が必要か。これまで散々書いたのでおわかりだと思うが、まずは「内申点」が必要なのである。当日のテストで挽回できる可能性もあるが、「内申点」はあればあっただけよい。逆にライバル達より「内申点」が少ないということは、テスト(学力検査)を受ける時点でハンディを背負うことになる。だから進学塾は、まずは「内申点」を上げる指導をする。これはある意味仕方ないことなのかも知れない。

 では「内申点」が(ボーダーラインに)足りない場合は志望校をあきらめねばならないのだろうか。ケースバイケースとも言えるが、私は基本的にイエスだと思っている。理由はこうだ。愛知県の公立高校の入試問題が簡単すぎるのである。つまり差がつきにくい問題なのである。しかもレベルの高い学校ほど得点力の高い受験生が集まるのだからますます差がつかなくなって、トップ校といわれる学校では満点勝負になってしまっている。これでは「内申点」の不足分を跳ね返すのは難しいのだ。

 私は入試の合否に「内申点」を使うことに全面的に反対するのではないのだが、「内申点」つまり通知表が相対評価であることが問題だと思う。相対評価だから、上がる生徒がいたら下がる生徒は必ずいるのだ。さらに、通知表の付け方も問題だ。「関心・意欲・態度」を重視した結果、教師の主観が大きく入り込んでしまっている。つまり学力を正確に反映しているとは言えないのだ。積極的に授業に参加していればそれでよいのだろうか。もちろん居眠りするとか欠席するのは参加しているとは言えないが、手を挙げればそれでいいのか。元気よく発言すればそれでいいのだろうか。なんでもかんでも「はい」「はい」なんて単なる軽薄な行動ともとれると思うのだが。とくに理解の速い生徒にとっては多くの授業は退屈なのではなかろうか(少なくとも私は退屈だった)。分かり切っていることに対して、さも今わかったかのように手を挙げたり発言したり・・・。私にはとても不自然な行動に思えるのだ。

 教科書が改訂されて内容は30%カットされる。これではますます退屈な授業が行われるだろう。そういう授業内容で、はたして通知表はどんな風につけられるのだろうか。内容が簡単になってしまって、中間試験や期末試験も「愛知県の入試問題」状態となって、通知表はますます「関心・意欲・態度」だけで決まってしまうとしたら、これはちょと怖いことである。公立離れが加速しなければいいのだが。

 


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