徒然日記その114. 学歴社会の変化 (9/24)
日本は学歴社会であった。「あった」と過去形で書いたのは、最近は盲信的学歴信仰は薄らいだと感じるからである。東大を頂点として、京大や一橋大など超有名難関大学を卒業し、中央省庁や有名大企業などのエリートコースに進むことに日本中が憧れていた時期も確かにあった。が、最近の立て続けの官僚の不祥事や不況によるリストラで大企業のエリートサラリーマンもクビを切られる時代となって、妄信的学歴信仰は薄らいだように思う。
では、日本の学歴信仰はなくなりつつあるのかというと、そうではない。大学名に変わる学歴信仰が起こっていると言えるだろう。皆さんは、MBAというものをご存じであろうか。「経営学修士」のことである。大学院で最新の経済学や経営学を学んだ修士号をもつ人たちである。アメリカでも日本でも、21世紀の経営を引っ張る有能な人材として引っ張りだこになった人たちである。
しかし、考えてもみて欲しい。大学だってそうなのだが、東大出身者はみんな優秀なのだろうか(ここでいう優秀さとは、単に学力を指すわけではない)。柔軟な問題解決能力をもっているのだろうか。実社会で活躍するためには、単に頭がいいだけでは不足である。企画力・折衝力・行動力など様々な力をバランスよく持っていなくてはならない。超有名難関大学出身者がみんなそうではないはずである。このことには、世の中がすでに気付いているはずだ。
ところが今度はMBAである。「MBA=優秀」という盲信的な学歴信仰がまた始まってしまったようである。思うに日本人というのは、なにか客観的な「安心」を欲しがる民族なのかも知れない。企業の人事部だって、「だって東大出身だったんだもん」と言い訳できる「安心」が欲しかったのかも知れない。だから大学信仰が使えなくなると、次には「だってMBAだったんだもん」に鞍替えしたということか。確かに、MBAならば優秀な人材は多いだろう。一般的な母集団と比べて優秀な人材に巡り会う確率もずっと高いと想像できる。しかし、100%ではないはずだ。かういう私だって修士号をもっている(経営学じゃないが)。その上の博士号だってもっている。でも優秀じゃないのだ(少し情けないけど)。大学院を出ているのだから学力は低くはないはずである。だからといって、全てに優秀である保証はないのである。
経験的に言えることは、MBAを始めとして高学歴人間は2つのタイプに分かれるということだ。1つは「本当に優秀」な人間。基礎になる知識・考え方、どれをとっても申し分ない。もうひとつは「戦力として使えない」人間である。企業でもお荷物になってしまう人材のことである。この2つのタイプの決定的違いはどこにあるか。「柔軟さ」である。前者は、遭遇した問題を解決するために、その問題の背景を理解し必要ならば貪欲に新しい知識を吸収しようとする。だから問題解決というゴールまでたどり着ける。一方、後者は違うのだ。遭遇した問題を自分の得意分野に強引に当てはめようとする。それではゴールは見えないのであるが、頑なに自分の得意分野にしがみつくのである。だから進歩もしない。両者のこの差は大きい。世の中はどんどん変化していくものである。その中で自分も変わることができるかどうかが、21世紀を生きていく上で重要なことじゃないんだろうか。
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