徒然日記その198. 二元論と思考停止 (10/27)
さてさて、前回の続きを書かねばならない。「R先生はおかしくなってしまったのですか?」なんていう心配のメールまで頂いて恐縮である。スクールネットさんの掲示板にもたくさん書き込みがあったようだ(書き込んで下さった皆さん、ありがとうございます)。さあ、本論に入ろう。今回はちょっと難しいからしっかり読んで下さい。
つくづく思うのは、「人間は肯定されたい生き物である」ということだ。「自分の存在」や「自分の行動」「自分の判断」を肯定されたいのである。そして、これらが否定されるといろいろな反応をする。最も多いのが、自分を否定した相手をヒステリックに否定仕返す行動をとることである。要するに、自分を否定する相手は「自分の敵」と言うことだ。
この「敵か味方か」というのは「危険な二元論」とでも言えると思う。なんでもかんでも「敵か味方か」で判断していては互いの理解も得られないし、軋轢は絶えないのである。世の中見渡してみるとこういう「危険な二元論」はいたるところに見られるわけであり、小は個人の争いごとから大は国家単位の紛争にまで様々な争いごとの根底に、この「危険な二元論」がある(アラブと白人社会の争いがいい例である)。冷静に考えてみると、相手の考えに100%賛成(二元論での味方)とか100%反対(二元論での敵)なんて場合があるのだろうか。むしろその方がまれであると思うのだが。しかし実際には、この「敵味方の二元論」がまかり通っている。
それはなぜかと言うと、本人が思考停止しているからである。一度敵か味方かを決めたなら、もうあとは考えないし、相手の主張や考え方を理解しようとはしない、つまり何も考えないのである。こうなってくると、もう相手を否定するしかないわけで、理論で否定出来ないときは相手の人格攻撃から始まって最後は言葉尻を捉えてのつまらない揚げ足の取りあいに行き着くのである。多くのインターネット上の掲示板で起こるケンカがはそういうケースが多いと思う。ヒステリックなやりとりは見ていて恥ずかしい。
さて、この「二元論的考え方」は、教育の世界にもたくさんある。「公立か私立か」「新設校か伝統校か」などなど。そもそも物事とは、そんなに簡単に2つのカテゴリーに分けることはできない。それを2つに分けて議論したところで何の結論も出ないのである。前回の文章には「管理教育高がダメで伝統高は素晴らしい」なんてことは書いてない。私はそんな二元論などどこにも書いてはいないのだが、一部の読み手の頭の中にはあらかじめそういう二元論があるのだろう。「管理教育高を批判しておいて、じゃあ、伝統高はどうなのよ?」となってしまうからだ。世の中、「二元論的考え方」と「思考停止」がますます幅を利かせてきたようである。学校がしっかり勉強「させてくれるから」なんて言ってる時点で思考停止である。
一人前の個人とは、「自ら考え」「自ら判断し」「自ら行動し」「自らその結果に責任を負える」人間だと思う。どういう進路を選ぼうと(新設校だろうと伝統校だろうとそれ以外だろうとね)、これができるようにならなければ一人前とは言えない。そして、残念ながら、自ら考えようとしない子供が増えている。ものすごい勢いで増えているのである。勉強とは「させられるもの」と思っている子供の方が多いかも知れない。これはなぜだろうか。原因は大人である。
学校教育とは、そういう「自ら考え」「自ら判断し」「自ら行動し」「自らその結果に責任を負える」人間を育てることだと思う(理想論だと言われてもこれは譲れない)。勉強や部活や、いやもっと日常の細々したことの繰り返しの中で、それを教えていくことだと思う。その手段として授業がありホームルームがあり部活があり友達との生活があり泣き笑いがありケンカがあるのだと思う。学校教育には時間がかかるしコストもかかる。その現場に、「コストパフォーマンス(費用対効果}」という資本主義経済の原理をもちこむと、現場がおかしくなってしまうのだ。学校教育に費用をかけているのだから目に見える成果を求めるなんて思考は間違っていると思う。
もう少し具体的に考えてみよう。高校に「予備校のかわりをすること」を求めたとしよう。いうまでもなく予備校とは「大学に合格させてナンボの世界」である。その目的を達成するために最高の効率を求める。まさにコストパフォーマンスを求める世界である。これを高校に求めるとどうなるか。効率を求めるために履修教科を減らし受験に有利な教科・科目を優先してカリキュラムを組み生徒の選択の幅を無くし一方的な価値観を強要することになる。まさに「二元論的考え方」を強要して「思考停止」させようとしているのである。こういう流れは現在では公立・私立を問わず多くの高校に広がりつつあるように思う。
学校が本来の教育目的を忘れて効率を求めるようになって、世の中おかしくなってきたんじゃないか。「自ら考え」「自ら判断し」「自ら行動し」「自らその結果に責任を負える」人間が減ってきたのである。
最後にもう一度。管理教育高か伝統高かという議論には何の意味もない。要は本人の意識の問題である。ただし、だからといって「本人次第でしょ」で議論を終わりにしてもいいのだろうか。管理教育高と言われる高校の卒業生にいろいろ問題がみられる「傾向がある」のは掲示板に書き込んでくださった通り客観的事実だろう。その傾向から、問題の本質を議論してこそ、皆さんのためになることが導き出されると思うのだが、いかがであろうか。
一つ前へ 次へ 塾日記目次へもどる トップページへ